知識の創造とは何か

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けあの学校

知識の創造ときくと、とても難しそうな気がするだろう。確かに「知識」も「創造」も堅苦しい言葉だろう。しかし、知識の創造はそれほど難しいコンセプトではない。知識とは、情報やデータといったものを含んでいるが、もっと広い概念で、必ずしも表記できないようなあいまいな兆候や現象をも含めたものである。ある人は「信念となる情報やデータ」であるというかもしれない。さらに、世界そのものが知識であるという人もいるだろう。広義に言えば、世界そのものが知識であるともいえる。狭義に言えば、「信念となるべき情報やデータ」であるといえるだろう。

はっきりといえるのは、「知識とは、書き表された、体系的な情報の集合体ではない」ということである。このような「書き表された体系的な情報の集合体」は知識の一場面であるが、これらがすべての知識であるということではない。

知識には、暗黙的な、まだ解き明かされていないような感覚や兆候、現象といったものがあり、それは暗黙知といわれる。形式知とは、体系化されたり、仕組みが解明されたもので、何かしらの表現ができるものをいう。この2つの知識は、知識を構成する主だったものである。この知識を構成する暗黙知と形式を考えた場合、量的には暗黙知が圧倒的に多い。しかし、一般的に了解されている知識の定義は、形式知であるといえる。知識のほとんどが暗黙知であるにもかかわらず、形式知が知識そのものだと解されているのである。なぜなら、暗黙知は知識として体系化されていないものであるからである。

見方によっては、知識そのものではなく、知識の源であると理解されるかもしない。確かに、体系性を持っていないのであるから、知識(形式知)の源であるといえる。しかし、一般的には、知識の源は知識ではないと理解されているので、知識=形式知だと理解されているのは致し方ないだろう。

しかし、あくまで言いたいことは、知識とは暗黙知と形式知で成り立つものであり、暗黙知こそ知識のほとんどを構成している知識なのだということを理解してもらいたい。



フレンド・ショアリング

経済安全保障 | 記事URL


米国バイデン政権は、「フレンド・ショアリング(friend-shoring)」というコンセプトをが提唱している。フレンド・ショアリングは「信頼できる貿易パートナーとの経済統合を深めること」で、同盟関係や友好関係にある国地域内でのサプライチェーンを構築するとともに、さらに多様化し、経済的リスクの軽減も進めることを含めて考える。

フレンド・ショアリングは米中間の覇権競争の顕在化と深刻化の中で、2016年頃から米国の経済安全保障の一環として構築を急いだサプライチェーンの重要なコンセプトである。

直接的には、米中覇権競争、世界的なコロナパンデミックやウクライナ戦争等による対応として出現した考え方とみることができるが、行き過ぎたグローバル経済の適正化もしくはパラダイムシフトとして捉えることもできる。

●2021年「繁栄のためのインド太平洋経済枠組み(IPEF:Indo-Pacific Economic Framework for Prosperity、以下IPEF)」(東アジアサミットでバイデン大統領によって提唱)
●2022年「貿易・技術協議会(TTC:Trade and Technology Council)」の設立。米国とEUの間での経済安全保障の確保を目的。

フレンド・ショアリングは、経済安全保障は保護主義によってのみ実現可能という主張への反論でもある。国内生産や少数の国との取引にだけ限定してしまえば、貿易の効率向上を著しく損ない、アメリカの競争力とイノベーションに打撃を与えるだろう。私たちの目標はリスクのある国との取引やサプライチェーンの集中から脱却し多様化を図ることだ。フレンド・ショアリングは閉鎖的ではなく、先進国に加え新興市場や途上国におけるアメリカの貿易パートナーも含めたオープンなものになる。



技術経営の手帳 · 技術の統治と人間の統治

概論 | 記事URL


技術(technology)は、人類に様々な可能性を与えてきた。その範囲と影響力の大きさは限度がなくなりつつあるようにみえる。

しかし、技術は自らの意思を持つわけでも、それ自体で成長したりすることもできない。技術は統治することもできる存在である。

技術が人類によって統治可能だからといって、その統治を行えるというわけではない。

技術は、そもそも知識である。知識は人間と切り離して存在することはできない。

そして、技術は科学とは異なる。技術はあくまで科学知識を人間の特定の目的のために再構築したものである。

故に、技術は二重の意味で人間社会から切り離すことができない存在である。

このように人間と切り離すことができないという性質から技術は統治が困難になっている。人間は不可思議の塊で、さらにその人間が複数人集まれば週癌・社会が形成される。

人間一人でも予測や統治が難しいが、社会という単位になるともはや統治は部分的にしかできない。完全に人間や社会を統治するという幻想を持つのが全体主義である。

統治の対象が人間・社会であれば、部分的にでも統治できているのであるから問題ないが、技術は完全統治できなければ問題が生じる。

なぜなら、技術は一粒でも取りこぼせば社会全体、人類の命運を途絶えさせるような力を持っているからである。

技術を統治することは今後、人類の歴史を永らえさせるために構築せねばならない知識なのだ。



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